大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和42年(ヨ)756号 判決

申請人

松谷和佳

代理人

岡田義雄

被申請人

光洋精工株式会社

代理人

東野村弥助

外五名

主文

被申請人は申請人に対して、その従業員として仮りに取り扱い、且つ、昭和四二年一月七日以降同年三月二〇日までの間月額金三三、一六四円の割合による金員を、同月二一日以降昭和四三年三月二〇日までの間月額金三七、三五九円の割合による金員を、同月二一日以降同年一二月二〇日までの間月額金四三、四四五円の割合による金員を、同月二一日以降月額金四五、四四五円の割合による金員を、毎月末日限りそれぞれ仮りに支払え。

申請人のその余の申請を却下する。

訴訟費用は被申請人の負担とする。

事実

第一、当事者の求める判決

一、申請人

被申請人は申請人に対して、その従業員として取り扱い、且つ、金四五九、七九六円および昭和四一年一一月二一日以降昭和四二年三月二〇日までの間月額金三三、一六四円の割合による金員を、同月二一日以降昭和四三年三月二〇日までの間月額金三七、三五九円の割合による金員を、同月二一日以降同年一二月二〇日までの間月額金四三、四四五円の割合による金員を、同月二一日以降月額金四五、四四五円の割合による金員を毎月末日限りそれぞれ支払え。

二、被申請人

本件申請を却下する。

訴訟費用は申請人の負担とする。

〈以下省略〉

理由

一被申請人(会社)がベアリングの製造を営業としている株式会社であり、申請人が昭和四一年一二月五日当時会社の従業員であつて、本社業務課業務係に転勤して納期管理注文残管理、販売促進の業務に従事していたところ同月六日付で会社が申請人に対して、賞罰規定の「3・4の(13)、及び(6)(10)(16)(23)」を解雇事由として記載した解雇通知を発送して、懲戒解雇の意思表示をした(本件懲戒解雇)ことは、当事者間に争いない。

申請人は、右通知には具体的事実でもつて解雇事由を明示していないから、その一事だけによつても解雇の意思表示は効力を生じない旨主張するのであるが、かかる法律見解を是認すべき法的根拠は見当らないので、右主張は採用できない。

二被申請人の主張によれば、本件懲戒解雇は申請人が本件転勤命令を履行しなかつたことに対する懲戒処分であるというのである。そこで、はじめに、会社における従業員に対する転勤および懲戒関係の社内規定につき考察する。

(〈証拠略〉)

(一)  会社の従業員三千七、八百人は、総評全国金属労働組合光洋精工支部(組合)を結成している。組合は国分工場内(大阪府)に中央執行委員会をおいたうえ、ほぼ事業所単位に国分、高松、徳島、東京の各工場、本社および東部、中部(名古屋市)、九州(小倉市)の各支社内に支部を設置している。そして、組合と会社との間には労働協約が締結されており、それによれば、次のように規定されている。

(二)  まず、組合員に対する転勤については、

第二六条 会社は業務の都合により組合員に工場事業場間の派遣転勤、工場事業場内の転籍又は社外勤務者にいつては本人の意思、生活条件等を公平に考慮して行う。

第三七条 組合員が各自の人事について苦情を有する場合は第六章に定める労使協議会に申立てることが出来る。

人事について前項の申立があつた場合は、労使協議会の裁定により行使する。

となつている。

(三)  そして、第六章には、第一一八条で、労使は協約の円滑なる運営と紛議の予防調整を図り業務の円滑な推進を目的として、労使協議会を設けることとし、第一一九条で労使協議会には中央労使協議会と工場事業場労使協議会をおき、前者は会社と組合の各中央機関の協議、後者は事業場管理者と組合支部間の協議たるべきこと、第一二三条第一項(ル)号で「苦情処理に関する事項」を協議事項のうちに挙げており、第一二四条で「前条第一項(ル)号に言う苦情とは組合員個人に対する本協約又は会社内に効力を有する諸規定の解釈に関する紛議を並びに日常の作業に付随し起る不平不満を言い」旨、第一二五条ないし第一二七条で、苦情処理は事態発生の日から七日以内に会社又は組合から提議し、これを受理した工場事業場労使協議会は五日以内に協議会を開いて早急に事態の解決に努力し、もしそこで苦情が解決されなければ、同協議会は五日以内に中央労使協議会に上告しなければならないこと、をそれぞれ規定している。

(四)  また組合員に対する懲戒については、

第三五条 会社は組合員を別に定める賞罰委員会の決議により懲戒解雇に処することを得る。

第三六条 第三四条に依る解雇の場合は会社はその氏名及び事由を三日前に組合に通知する。第三三条並びに第三五条の場合は氏名のみ通知する。

旨規定されており、この労働協約および就業規則の趣旨に則つて、さらに会社は賞罰規定を制定している。

同規定の4・2と4・3で賞罰委員会として中央賞罰委員会と事業場賞罰委員会の二種をおき、右委員会はいずれも会社と組合から各同数宛選出された委員により構成されることが定められている。

本件懲戒解雇は同規定の左記条項を適用して為されたものである。

3・4従業員が次の名号の一に該当するときは懲戒解雇とする。

(13) 正当な理由なくたびたび上長の指示命令又は責任者の通達指示に従わなかつた者

(24) 苦情処理に関する決定に服しない者

(6) 業務上の怠慢により業務に重大な支障を起した者

(10) 一〇日以上無断欠勤した者

(16) 他の業務を妨害し、又は妨害させようとした者

(23) 濫りに職場放棄をする等、業務上の正常な運営を阻害し、又は他人をして前段の行為をなさしめるよう教え、若しくは煽動した者

(五)  以上の各規定によれば、会社が組合員に転勤を命ずるのは、労働協約第二三条を適用して行うものであるから組合員においても転勤命令があればすべてそれに従わなければならないというのではなく、それが右条項を正当に適用して為されている限度でそれに従うべき義務を負つているわけである。したがつて、転勤命令の当否はまさに労働協約の解釈に関する紛議であつて、組合員は各自の人事についての苦情として、労使協議会に苦情処理を申立てられるべき事項であると解される。そして、同第一二五条ないし第一二七条によれば、組合員は組合支部に対して右申立を為し、組合支部がこれを提議してはじめて協議に付され、協議会では会社側と組合側が各当事者となつて追行すること、これらの手続は極めて迅速に処理されるべく予定されていることが窺われるのである。

三つぎに労使協議会において本件転勤命令に関して行われた苦情処理および本件懲戒解雇に至るまでの経緯はつぎのとおりである。

(〈証拠略〉)

(一)  申請人は本社支部の組合員であつて、昭和四〇年一〇月以来同支部副委員長をしており、大阪市南区鰻谷西之町二番地「光洋ビル」内で、前述した業務を遂行していた。

(二)1  昭和四一年一〇月二五日会社の糸藤人事課長は、申請人に対して、中部支社(名古屋市所在)の業務強化のために近々に同支社に転勤してもらう旨内示し、さらに本社支部の鯉谷副委員長・田中書記長に対しても、申請人の転勤予定を通知した。

2  同月二七日、定例の本社労使協議会において予定された議題につき協議されたあと、会社側はあらためて、申請人の転勤予定を告知し、申請人には当面は中部支社の業務課で勤務して地域事情も呑みこんだうえ、将来は販売員にしたい旨の意向を述べ、それに対して組合側からは早急に会社が発令しては困ること、組合側との事前協議もなしに右転勤を決めたことは遺憾である旨の発言があつた。

3  同月二八日、会社は申請人に対し、中部支社業務課勤務を発令した(本件転勤命令)。

4  同月二九日、本社支部は会社に対して、「松谷和佳配転に関する本人苦情申立の件」につき、本社労使協議会の開催を申し入れた。

5  同年一一月二日、前記苦情処理に関する第一回本社労使協議会が行われた。組合側の主張は、第一点は、昭和三八年頃会社と組合間には、組合役員を転勤させる場合は労使間で事前協議する旨の取り決めがあるにも拘らず、今回の転勤は事前に組合からの了解も得ないうちに発令した瑕疵があるから無効であること、第二点は、本人の意思や生活条件が公平に考慮されていないから労働協約第二六条に違反すること、第三には、転勤させるだけの業務の必要性が認められないことであつた。それに対する会社の主張は、第一点は、組合三役の転勤については組合に事前通知すれば足りると解されること、第二点は、本人の意思や生活条件につき公平に考慮していること、第三点は、人事配置というのは、本来的に会社が経営的見地から適材適所となるように実施するものであるところ、今回の転勤は申請人の経歴、業務能力に鑑みて、中部支社業務課の強化と申請人の業務能力開発に適つているということであつた。そして、双方の意見はついに一致しなかつた。

6  同月七日、第二回労使協議会が行われた。そして、二時間を超える協議にも拘らず、労使双方は意見が対立して、早急に合意できそうになかつた。そこで会社は最終的提案として、(イ)今後支部三役を転勤させる際には、もつと充分な期間をおいて事前通知と協議を行う。(ロ)申請人の個人的事情については今後異動する際に充分考慮する。(ハ)今回の転勤により経済的に不利にならないように考慮する、との三条件を示して、組合側にこれを承諾するように求めるとともに、会議を打切つた。

(三)1  同月一一日、糸藤人事課長は申請人に対して、中部支社へ至急赴任するように、口頭で催告するとともに、書面で業務命令を発した。

2  同日、本社支部では執行委員会が開かれ、票決の結果一六対三をもつて、同支部では申請人が転勤に反対することにつき支援しないことに、決定した。

3  同月一四日、申請人は中央執行委員会に異議を申立てたが、申立者が組合員個人であるために、直ちに受理されなかつた。

4  同月一六日、会社は申請人に対して、同月一九日までに中部支社に赴任するように書面で業務命令を出した。

5  ところで、これまでの慣例によれば、労使協議会で会社側からの提案に対して、組合側において、もしこれを承諾する場合には、その旨を会社宛に通知し、またこれを承諾しない場合にはさらに協議を続行せしめるべく再度協議を申し入れていた。しかるに前記苦情処理に関しては、第二回労使協議会開催以降、本社支部からは会社宛にいずれの通知や申入れもなかつた。そこで糸藤人事課長は本社支部の河島委員長にその後の組合側の意向を尋ねたところ、同人より、同支部としては前記苦情処理につき支援しないことになつた旨の事情が説明された。

6  同月一九日、会社は本社支部に対して、同月七日に会社側の最終提案につき組合側が承諾してくれるように要請したが、その後二週間経過するのに組合側からの返答がないこと、従つて組合は本件につき、会社の意向を了承し、協議を自然解消に打切つたものと看做す旨、書面で通知した。

7  同月二二日、本社支部は申請人に対して、前記苦情処理申立については今後取り上げてゆかないことになつた旨、を書面で通知した。

8  その後、糸藤人事課長が本社支部の田中書記長に対して、重ねて前記苦情処理について組合側の意向を尋ねたところ、同人は組合側では苦情処理手続は終つたと考えている旨述べて、前項記載の書面の写しを見せた。

(四)1  同月二五日、会社は河島委員長に対して、「松谷和佳に関する懲戒の件」につき賞罰委員会の開催方を申し入れた。

2  同月二六日、会社は申請人に対して、本社内に立入ることの禁止を書面で通した。

3  同月二九日、会社は組合に対して、前記賞罰委員会開催の申入につき回答をもらつていないが、三〇日中に回答がなければ会社の見解により人事権を行使する旨を通知した。

4  その後、本社支部からは会社に対して、右賞罰委員会の開催に関して何の回答もなかつたので、会社は同年一二月六日申請人に対して、本件懲戒解雇に付するとともに、解雇予告手当金として金三三、九五六円を郵送し、あわせて本社支部に対して前記一記載の解雇通知書の写しを付して、書面で通告した。

四そこで、右に認定した本件転勤命令から本件懲戒解雇に至る一連の事実経緯について、その手続の適正、懲戒事由の該当性を考察する。

(一)  前記二の(五)で述べたように、申請人は本件転勤命令の当否につき労使協議会における協議を受けられる法的地位にあるから、会社においても、本社支部から「松谷和佳の配転に関する本人苦情申立の件」につき、労使協議会の開催申入を受けたならば、同協議会の裁定により人事権を行使する義務がある。ところで、右案件に関する労使協議会は二回にわたつて開催され、昭和四一年一一月七日の第二回協議会において、会社側より三条件からなる最終提案を示されたのであるが、これに対して、同支部は正式には諾否いずれの回答もせず、また再度の協議の申入もしないで、協議は中断されている。

しかして、この苦情処理は迅速を要する手続であること、同支部がかかる態度をとつた理由は支部執行機関において申請人の申立による前記苦情処理を取り上げないことにしたためであつて、申請人に対してもその旨正式に通知されていること、右協議会中断後糸藤人事課長は口頭で組合側の意向をただしたところ、委員長や書記長からはしばしば前記事情が説明されていること、その間会社から申請人に対して出された再三の業務命令に対して、同支部からは何ら異義を出しておらないこと、右協議会中断の一七日後になつて会社は書面をもつて同支部の意思をただすとともに、回答がなければ会社側の提案を承諾したものと看做すとまで通告したのであるが、依然として同支部は回答しなかつたものであること、等の事実を考えあわせるならば、「松谷和佳配転に関する本人苦情申立の件」については、本社支部は遅くとも同月二〇日頃には本社労使協議会を黙示に取下げたもの、あるいは前記会社側の最終提案を黙示に合意したものと看做されるべきである。したがつて、いずれにしても右苦情申立の件は本社労使協議会において解決されたものであり、これを認容しない旨の決定ないしはそれに準ずる結果になつたというべきである。

そうすると右案件については中央労使協議会へ上告する必要もなく、また現に本社労使協議会から上告されてもおらないのであるから、中央労使協議会が開催されなかつたことも当然の処置である。

(二)  つぎに、本件懲戒解雇が賞罰委員会の決議もなく行われたことは前述したとおりであるが、そもそも労働協約および賞罰規定において、会社側組合側より各同数宛選出された委員により構成された賞罰委員会の決議により懲戒解雇に処することにした制度の趣旨は、組合が組合員の利益を守るために使用者の懲戒権の行使に参加しようとするものであるから、本件の如く、会社が本社支部に対して再度にわたり賞罰委員会を開催すべく組合委員の参加を求めたのに拘らず、同支部において委員を参加させなかつたために賞罰委員会を開催することができなかつた関係にある以上、その後に会社が自己の判断において懲戒解雇したところで、それが労働協約第三五条に違反しないことは当然である。

そして、本件懲戒解雇には労働協約第三五条所定の手続は経ておらないけれども、それが懲戒解雇であることには変りがない以上、同第三六条所定の通知手続の履行を要すると解されるところ、前記認定のように会社は組合に対して、申請人の氏名のみならず、懲戒の根拠となつた賞罰規定の条項まで通知しているのであるから、この点においても手続は適正であつた。

(三)  そして、前述した経過のように、会社からの再三にわたる業務命令にも拘らず、申請人は昭和四一年一二月六日に至るも、ついに本件転勤命令に従う態度を表明しなかつたのであるから、かかる申立人の態度は右転勤命令が無効でない限りは、賞罰規定3・4の(13)、(24)、(28)にあたることは明らかであり、その情状に照らせば被申請人主張のその余の条項の該当性につき論ずるまでもなく、当然懲戒解雇に相当する。

五そこで本件転勤命令が不当労働行為にあたるかどうかを検討しよう。

まず、業務の必要性に関しては、つぎのような事実がある。

(〈証拠略〉)(但し、疎明の対象から(四)の前文を除く)

(一)  会社では人事異動の根幹を、毎年々頭に職制変更も含めて行われる総合的計画的な一斎人事異動において来た。それ以外に右年頭異動までの間に行われる異動としては、緊急的に充員する必要が生じた場合に臨時的に行われるのであるが、それは一一月初頃までの時期に限られている。

また会社では概してひんぱんに人事異動を行つていると言えるが従業員の能力開発のためには若年の間にできるだけ多種の職務を経験させること、本社営業所などの営業の出先機関に勤務する者は、なるべく工場勤務から本社業務を経験した者から選定することを理想としていた。

(二)  中部支社には、昭和四一年一〇月末現在で、つぎのように業務課員一名の配置を必要としていた。

1  同支社の業務内容は、ベアリングを主体とする製品および関連製品の販売である。同支社の業務課は安本課長以下、業務係男子係員四名と倉庫係男子係員五人をもつて構成されており、管理業務と納入業務を遂行していた。前者は受註、販売、債権回収の営業成績をあげるための事務であり、後者は販売先に納期通りに商品を納入する仕事である。

同支社の主な販売先としては、トヨタ自動車販売、三菱重工業、本田技研等の自動車メーカーが主体となつており、これらには同一型番の製品を長期間に継続的に供給する場合が多く、このような販売型態を社内ではライン部門と称して、所謂「一発物」と対比していた。

2  同支社の第五八期(昭和四一年から九月まで)における営業実績は東部支社とともに第一位第二位を分つほどであつた。

そしてその実績は

受註  一八億八千万円(二〇億七千万円)

販売  一七億五千万円(一八億円)

債権回収一五億二千万円(一四億三千万円)

(但し、括孤内は東部支社の分)

となつており、また目標の達成率も高く、会社からは最優秀支社として表彰を受けている。

そして、販売量増加の程度も、昭和三五年頃と比較すれば約二倍半となり、前年と比しても約六〇%程伸長している。そして、その営業実績は今後もさらに伸長するであろうことが予想される。

3  それに対して、配属人員は、東部支社の一三八人に対して中部支社は五八人にすぎないため、人員は不足気味であつた。そのため、安本業務課長は、倉庫係二名、業務係一名の補充を要求していた程であり、また昭和四一年六月前後には大上業務部長に対して、申立人が米谷を同支社に転勤させてくれるように申し込んだこともあつた。

そのうえ同支社倉庫係の原田光則は昭和四一年二月八日付で国分工場から転勤して来たものであるが、同人は本来は浜松営業所で勤務することが予定されている者であつて、教育的見地から暫定的に配置されていたのである。ところでこの教育のために必要な期間ならばせいぜい三ヶ月前後もあれば一応所期の目的を達成して、その後は本来の勤務先へ転出するのが普通であるが、同人の場合はたまたま中部支社業務課が多忙となつたため同課から他へ転出するのが困難となり、結局は同年十一月六日迄従来どおり勤務していた。そして、同人がいよいよ浜松営業所に転出することになつたので、業務課は一名減員となり、それを他からの転入により補充する必要があつた。

また同課業務係の泉田建樹は腰痛症につき入院治療を受けるため、同年七月二〇日から同年九月二四日まで欠勤し、その後出勤するようになつてからも通院治療を続けており、未だ充分に就業できるまでには回復していなかつた。

(三)  そして、後述する組合活動関係の事情を除くと、申請人には、つぎのように中部支社業務課の補強要員となるべき適格性があつた。すなわち、

1  申請人は昭和一四年七月生れであつて、昭和三三年に工業高校を卒業して入社し、二月間国分工場で鍛造作業を実習したあと、三年一月間同工場治工具課技術係に勤務し、その後二年五月間本社業務部販売企画課で販売価格の見計り業務に従事し、さらに二年九ヶ月間を同部業務課に勤務して前述した業務に従事していた。そして、業務課員の中では最も業務部歴が古く、また業務課在任期間も長い方に属していた。また、申請人は東部西部両支社のうちのライン部門を担当としており、その主たる取引先は自動車メーカーであつた。したがつて、その業務内容は中部支社業務課のそれと、質的に連続するものであつた。

このように、申請人は、業務関係の事務処理ことにライン部門については相当に習熟していると見られ、また新らたな職務経験を得さしむるべく異動させられても相当な時期にさしかかつていた。しかも申請人には、技術系販売員としての適性も認められる。そして、前述の如く、同支社の安本業務課長からも申請人を受け入れたい旨の希望が出されていた。

2  申請人の家族関係としては、まず母親は天理教布教師をしており、和歌山県かつらぎ町で長男(日本酪農協同組合和歌山工場勤務)夫婦と同居し、姉は結婚して同県橋本市内に居住し、妹もすでに結婚している。そして、申請人は独身であつて橋本市内にアパートを賃借して居住していた。当時母親の世話をしなければならない事情があつたとの疎明もなく、要するにこの関係では身軽であつた。

また、申請人が中部支社に赴任することになれば、名古屋市付近に転居して勤務しなければならない不利益を蒙ることになるものの、反面、同支社には無償で入居できる従業員寮の施設もあり、名古屋市と現在の居住地、勤務地とはさぼど遠距離にあるわけでもないうえ、昭和四〇年一一月の時点では将来の勤務として東部または中部支社の営業関係を希望していた事情もあるので、右不利益についてもこれをあまり重大とは解されない。

3  ところで、本社業務部業務課には、課長以下申立人を除いて係長二名、男子係員八名が勤務していたが、そのうち係員の田原久嗣は中部支社を担当し、業務内容的には中部支社業務課と最も緊密な関係にあつたが、同人には円錐角膜を治療するための必要から、当分は住居を大阪市附近から移せない事情があり、またその外の課員につい考察しても、その業務事情や個人的事情から見て、申立人に匹敵し得るだけの転勤適格者はない。

(四) 前記(一)で述べたように、会社は平常的な人事異動は年頭異動により実施しているのであつて、反面、本件転勤命令の如く年頭異動を間際に控えて行われる臨時異動は、緊急の例外措置と解される。そして、かかる場合においては、前記(二)、(三)、で述べた業務の必要性のみならず、年頭異動の実施まで待つていたのでは業務上重大な支障を生ずるおそれがあるという、緊急事情があつてこそはじめて実施されるのが普通であろう。そこで、つぎにはこの観点から本件転勤命令が為されるについては、かかる緊急の業務の必要性があつたのか、つまり中部支社には昭和四一年の一〇月一一月頃緊急事態が生じていたのかを検討する。

1  本件転勤命令は、直接には原田を同支社業務課から浜松営業所に転勤させたこと(同年一一月七日付)から始まつた一連の処置であるので、まずは原田を同営業所に配置すべき必要性が問題になるところ、同営業所の販売実績の推移としては、同年四月から八月までは各月六千万円を前後し、九月には九千万円を前後し、九月には九千六百万円に達したもものの、一〇月から昭和四二年二月までは再び前同様に六千万円台を横ばいする状況となつている。そうすると、右数値を見る限りでは、この時期に同営業所に原田を配置しなければならない緊急性は特に認められない。

2  また、同支社業務課において、原田を転出させたあとの減員分(当初から予定されていたものであるから、謂ゆる欠員にはならない。)を補充する必要があつたか(正確には、この際同課の定員を一名増加する必要があつた)かも問題である。〈証拠略〉によれば、同課への要員補強策として総務課より小島源子(昭和四一年五月二一日採用)を配置替したというのであるが、他方〈証拠略〉によれば、小島の転入は泉田の転出と引換えにとられた処置、とも窺われるのであつて、はたして原田を転出したあとその減員補充がなされたのか、さらには緊急に減員を補充すべき必要性があつたのか、疑問なしとしない。

そして、昭和四二年の年頭異動では営業部門の強化を基本方針とし、同支社にも、営業と業務の要員に五名増員されたのであるが、右異動の終つた同年三月五日現在の業務課の陣容は、業務課長兼務の総務課長のもとに係長二名(一名は係員の昇任による)男子係員五名女子係員一名であつて、事務分掌の変更により男子係員一名の担当する分の事務量が減少した事情はあるにしても(反面、営業実績は以前よりも増加していると思われる。)原田転出後の同課はその構成が右陣容に比べて多少見劣りこそすれ、事務処理能力に著しい支障があつたとまではにわかに解されない。

3  また、病気のため泉田の就業能力が不足していたとしても、同人は昭和四一年七月二〇日から同年九月二四日まで欠勤したあと、同月二六日以降はともかく出勤するようになつたのであるから(同年一〇月二〇日までの欠勤は一日である。)少くともこの関係では同課の事務処理能力が、同年一〇月段階に至つて従前よりも低下することはあり得ない。

4  そして、会社が申立人に中部支社業務課勤務を命じた意図は、原田の転出に伴う緊急処置ということよりも、むしろ将来販売員業務に従事させるべく、そのために当面は現地事情に通じさせておこうという点に、重点があつたと思われる。

以上(一)ないし(四)で認定した事実を総合すれば、本件転勤命令については、もしそれが年頭異動の一環として行われたものであればその業務の必要性も首肯し得られるけれども、年頭異動を目前に控えて行われた臨時異動としては、それが為されるべき業務の必要性には疑問が残り、この点の疎明は未だ不十分といわざるをえない。

六つぎに、申立人の組合活動およびこれに対する会社側の態度を考察する。

(〈証拠略〉)

(一)1  申請人は昭和三三年五月組合国分工場支部に加入し、職場大会の席上で発言するようになつた。

2  昭和三六年六月、申請人は転勤にともなつて、本社支部に所属した。そして、組合大会の席上ではかなり積極的に発言していた。

3  本社支部は、機関として委員長、副委員長、書記長の三役と執行委員(一五名前後)よりなる執行委員会および本件大会を置き、この役員を選任する方法として、三役については前期執行部から推せんされた候補者を支部大会で投票により信任し、また執行委員については職場に則したブロックから選出された者を支部大会で承認することにしている。また同支部では昭和三九年一〇月から副委員長二人制にした。これは、本社勤務の従業員は職務が多忙で各役員が組合活動に従事しうる時間的余裕も少くないこと、本社職場が光洋ビル(主に、ライン事務関係)と心斎橋ビル(主にスタッフ事務関係)とに分かれているので、両者の意思疎通を図るべきこと、組合指導部の後継者を養成すること、等の目的をはたそうとして始められたものであつて、同支部独自の体制であつた。

同支部の組合活動や青年婦人部活動には見るべきものがなく、支部独自の活動としては執行部が労使協議会で会社と協議するぐらいに限られており、また執行部の路線は概して労使協調的であつて、全般的に活動は他支部と比べて低調であつた。

4  昭和四〇年度春期闘争では組合は長期争議を展開、全面ストライキも含む延一〇日間近くのストライキを実行した。しかるに本社支部執行委員会は、争議の途中で中央闘争委員会からのスト指令に反して、組合員に就労指令した。申請人は工場に業務連絡した際にスト指令返上の事実を知り、他組合員らとともに執行委員を督促して当日午後に支部大会を開催させ、その席上で申請人をはじめとして業務部生産部に勤務する組合員らは執行部に対して、スト指令を返上したこのような態度の不当性を追求し、その結果あらためて中央闘争委員会の指令に従う旨の決議がなされた。

しかし右情勢変化のため、組合はそれ以降に実施する予定であつた全面ストライキを、工場部門に限る重点ストライキに変更せざるを得なくなつた。

5  同年九月、申請人は執行部より次期(同年一〇月より昭和四一年九月まで)副委員長候補として推せんを受け、支部大会で最高数の信任票をもつて副委員長に選任され、さらに執行委員会で組織部長にも任ぜられた。このように、組合員が執行委員の経験を経ないでただちに三役に選任される事例は、河島委員長(副委員長選任の際)森前期委員長(書記長選任の際)を始めとして、めずらしいことではなかつた。

この申請人の三役就任は、さきの春期闘争で業務部生産部勤務の組合員を中心とする勢力から執行部のスト返上方針が批判されたことに鑑みて、右勢力から支持されている同人を執行部の中核に入れて、右勢力の意見を直接執行部に反映させ、執行部の方針と大会決定との齟齬等をなくし執行部との融和を図つて、組合の運営を円滑化しようとするものであつた。

他の三役は、河島委員長、久貝副委員長、山中書記長であつた。

6  申請人は副委員長に就任後、昭和四〇年一〇月二三日の本社労使協議会において残業手当が正規に支給されていない旨提議し、会社側に手続さえとれば完全に支給する旨約束させ、その後においても支給状況を調べては右約束の履行を督促するなどして、一応の成果をあげた。

7  同年度の年末一時金要求闘争において、組合が翌日から全面ストライキに突入しようという情勢を迎えるに至つた。しかるところ本社支部の河島委員長と山中書記長は申請人に対して、同支部だけはストライキを回避しようと説得したのであるが、申請人は前記春闘時の組合大会のことなど引き合いに出して、それに反論した。

8  昭和四一年度春期闘争においても、組合は前年度に匹敵するほどの争議を展開したが、本社支部も中央闘争委員会からの指令どおりに闘争した。

9  同年のメーデーには、本社支部から一〇一人が参加した。従前はメーデー当日が日曜日にあたり、しかも前日には春期闘争を締めくくる支部大会があつて、その席上で申請人が組合員に対して、メーデーへの全員参加を訴えていた。なお、申請人の解雇後においては、昭和四二年には同支部からメーデーに六人が参加したが、昭和四三年には一人も参加していない。

10  同年六月一二日、本社の事務室に一〇台のテレビカメラが設置された。申請人はこの事実を知るやさつそく執行委員会を開かせて、その席上でこれは日常的に監視を強めて労働強化をもたらすものであるから反対しようと提案し、審議の結果さらに右提案は職場討議にも付せられた。その結果に基いて執行委員会においてテレビカメラ設置に反対することに決定し、その方策として抗議方を会社宛に提出することになつた。そして、申請人の起案を基にして抗議文も作成されたのであるが、結局は河島委員長からの強力な反対のために提出されなかつた。その後、同年七月二二日に本件を議題として労使協議会が開催され、その席上で主として申請人が撤去を要求する旨の発言をした。

11  その頃、申請人は同じ職場の従業員三三名の署名を集めたうえ、光洋ビル四階の冷戻設備を改善するように、上司を通じて会社に要請し、所期の成果をあげた。

12  会社は企業利潤向上のために新規の労務政策としてZD運動(無欠点運動)を展開させることとし、同年七月二一日よりこれを開始した。これに対する組合の態度は、積極的協力をしないで当分は推移を見守ることとし、もし組合員に具体的な不利益が生じたり組織がかく乱される事態となれば、反対しようということにしていた。

しかるところ、同年九月二六日本社支部青年婦人部定期大会において、申請人はZD運動について合理化政策であるから反対すべきである旨提案し、討議された結果「労働強化につながるZD運動に反対し、これを組合中央の青年婦人部運動方針に取り上げるよう要求する」旨の決議が為された。

13  同年九月、本社支部大会で最高数の信任票を得て次期副委員長(同年一〇月から昭和四一年九月まで)に選任され、あわせて前同様に組織部長にも任ぜられた。他の三役は、河島委員長、鯉谷副委員長、田中書記長である。

14  同年一〇月二五日、会社が本件転勤命令を内示した。当時は、組合では、同年度年末一時金要求闘争に向けて要求を集約する段階にあつた。そして、これに対する組合内部の反応にも、注目すべきものがある。

まず執行委員会においては、同月二六日には、右転勤にはただちに反対すべきでないとする意見が河島委員長をはじめ相当有力にあり、同年一一月一日にも、河島委員長、鯉谷副委員長から転勤命令には実体的不当性はないと主張されて、結局、不当労働行為を異議事由に含めないことに決定し、同月一一日にはさきに支部大会で決議されたのとは相反する内容の決定がなされて、申請人からの苦情申立を支援しないこととなり、同月二九日には右委員会決定がさらに支部大会で覆えされるや、これを遺憾として大多数の役員は辞表を委員長のもとに預けたりした。このように申請人以外の三役は当初から転勤反対には消極的であり、また他の執行委員も多くは消極に流れ勝ちであつて、ついにこれを不当労働行為の問題として会社側と対決してゆくまでには至らなかつた。

これに対して一般組合員における動きはと言えば、同年一〇月二八日の年末一時金要求闘争に関する支部大会で、申請人を転勤させない方向で支援することが決議され、この決議が同年一一月一一日執行委員会決定により覆えされるや、さらに同月二八日の支部大会で右委員会決定の当否を問題とし、票決の結果、それを再度逆転させて今後も申請人の転勤反対を支援するべく中央執行委員会宛に異議申立する旨の決議が為された。このように、一般組合員の間では本件転勤命令をめぐる一連の動きのなかに、申請人に対する支援の強さと組合活動の漸く興隆しつつある姿を見ることができる。

15  そして、申請外玉尾一雄、同武田清、同川端茂登之らは、以上述べた申請人の組合活動について、これを強く支援しまた最も身近かな協力者となつていた。

(二)  つぎに、組合活動に対する会社の態度である。

1  会社は組合から展開される労働攻勢に対して、「会社公報」による宣伝活動につとめるほか、前述のZD運動を展開させるなど、労使協議を確立すべく努めていた。

2  昭和四〇年度春期闘争中本社支部では(執行部が一存でストライキを回避し、これを組合員が支部大会を開催させて批判したことがあつたところ(前記(一)の4、数日後大上業務部長は業務部員全員に対して、組合員のかかる行動は不当である旨説示し、その際特に申請人を強く非難した。

3  組合の支部三役が在任中に転勤したことは、昭和三八年に国分工場支部副委員長の転任問題があつて以来、久しく例を見なかつたところ、昭和四一年には八月頃山中書記部が国分工場勤労課に転勤したのに引き続いて本件転勤命令が出されている。

4  同年一〇月二七日の本社労使協議会で、会社側は、運動が本社ではほとんど行われていないうえ、組合役員が右運動の害を組合員に宣伝していることに、不満を述べていた。

5  さらに、昭和四二年度の年頭異動では、申請人の組合活動における協力者であつた玉尾、武田、川端らも、すべて本社から支社、営業所へと転勤させられた。

(三)  そして、申請人が中部支社に転勤させられることになれば、本社支部の組合活動に大きな影響を与えることになるだけでなく、申請人もこれまでの組合活動の本拠を離れて組合員もより少い未知の職場へ移ることによつて、今後組合活動を行つてゆくうえもその行動性影響性に大きな制約となるものであるから、かかる結果を招来するような転勤は、組合と申請人の組合活動に対する支配介入行為であるとともに、活発な組合活動を行つてゆきたいと考える申請人にとつては、不利益処遇にもあたる。

(四)  以上(一)で述べた事実によると、本社支部の組合活動は従前では、支部単位のものとしては執行部内の動き以外に見るべきものがないうえ、執行部の路線は労使協議の傾向が強く、また支部全体の気運としても資本との対決を避けたいものがあつて、そのためにことに組合規模の闘争に際しては中央の闘争方針に批判的な動きを示し、争議が激化するのを足止めする役割を果してさえいた。しかるに、昭和四〇年度春期闘争では、執行部が本社支部を全体の闘争体制から脱落させようとしたことに対して、一般組合員から強い批判が加えられるという情勢の変化が生じ、さらに同年九月の役員選挙で、この批判勢力から支持を受けている申請人を次期副委員長に推せんして右勢力と執行部との融和を図つたところ、申請人は最高得票数をもつて信任された。そして、それ以後、申請人が原動力となつて活発な組合活動を行い、前述の如く昭和四一年春闘における争議行為の実施、同年メーデーの多数組合員の参加、テレビカメラの設置反対、ZD運動反対、等の運動を起し、従来の本社支部にはみられない活発な組合活動が展開せられると共に、労使対決の機運が助長せられていつた。しかも、申請人の執行部内における比重も、次第に高まりつつあつた。

しかして、右事実と(二)(三)で述べた事実を総合すれば、会社が申請人の行動に注目してこれを嫌悪するのあまりその組合活動を本社支部から排除し、さらに今後の活動も制約してゆこうとの意図を生じ、それを実現させるべく申請人を中部支社へ転勤させようと考えることも、十分あり得ることである。

七そして、本件転勤命令については、業務の必要性が充分に認め難い点があること、会社には六で述べた不当労働行為意思の存在を推認されるべき事情のあることを考えあわせるならば、会社は申請人に対してその組合活動を嫌悪するのあまり、それに報復して不利益に処遇しまた本社支部の組合活動から排除せんとするの意図から、本件転勤命令を発したものというべきであるからこれは労働組合法第七条第一号第三号に違反して無効である。そうすると申請人には、かかる無効な転勤命令およびこれを前提とする各種業務命令に従うべき義務はないわけであるから、したがつてまたそれらに違反したことをもつて前記賞罰規定を適用してなされた本件懲戒解雇も、右規定の適用を誤つたものとして無効と解すべきである。

しかるところ、申請人は被申請人の従業員たる地位にあるわけであるから、被申請人は申請人に対して、その従業員として取扱うとともに所定の賃金を支払う義務がある。そして、本件解雇当時の申請人の賃金額が月額金三三、一六四円であることは、被申請人において明らかに争わないところであるから、これを自白としたものと看做す。

つぎに右賃金額の昇給状況を検討する。〈証拠略〉申請人本人尋間の結果により成立を認める疎甲第八号証によれば、その後の昇給賃金の算定式は左のとおりであることが一応認められる。

昭和四二年度(同年三月二一日より昭和四三年三月二〇日まで)

(イ)新日給額 旧日給額+{3,200円+(旧日給額×26日+5,460円)×0.03}÷25日

昭和四三年度(同年三月二一日以降)

(ロ)新日給額 (イ)の新日給額+{4,640円+((イ)の新日給額×25.5日+5,460円×0.0383}÷25日

そして〈証拠略〉記載の「所定月収三〇、四〇〇円」を二五日で減じて得られた数値一、二一六円をもつて申請人の旧日給額と推認するのを相当とするところ、これを前記算定式にあてはめて計算すれば、

昭和四二年度 新日給金一、三八〇円、

昇給月額金四、三一二円

昭和四三年度 新日給金一、五一七円、

昇給月額金六、二二一円

となり、この昇給月額を従前の賃金額月額三三、一六四円に加算して昇給後の新賃金月額を求めると

昭和四二年度金三七、四七六円

昭和四三年度金四三、六九七円

となる。

つぎに、〈証拠略〉と弁論の全趣旨によれば、申請人は昭和四三年一二月に結婚していることが認められ、従業員が結婚した場合には、会社から家族手当及び特地手当が月額金一、〇〇〇円宛支払われることは当事者間に争いないので、この増額分をさらに加算すれば、昭和四三年一二月以降の賃金月額は金四五、六九七円となる。

そして、申請人の申請にかかる月額賃金の請求額は前記金額を超えていないので、全て正当というべきであるが、昭和四一年一一月二一日以降解雇時までの賃金は一応支払済であると推認されるので、この分の賃金債権は弁済により消滅したものと考えられる。

八しかして、〈証拠略〉と弁論の全趣旨によれば、申請人には資産もなく会社から支給される賃金のみをもつて生活する労働者であるところ、本件解雇のため継続した収入の途を断たれ、現在は妻の稼働する月額金三万円程の収入と月額金一万円ないし金一万五千円のカンパを主たる収入として生活し、生活費の不足を補うため組合から金一五万円位の借入れも受けていることが一応認められる。かかる事実によれば、申請人には被申請人より前記月額賃金相当の仮払いをうける必要があると解されるところ、申請人は被申請人より解雇予告手当金として金三三、九五六円を受領している事実も認められるので、この範囲では仮払いを受ける必要はないので、これを当時の賃金額により日割計算すれば、昭和四二年一月六日に至るまでの分に相当する。また一時金の仮払いについては前記認定事実関係のもとでは未だ、これを認めるべき必要性はないというべきである。

以上述べて来たように、本件申請については被申請人に対して申請人をその従業員として仮りに取扱うべきこと、および昭和四二年一月七日から同年三月二〇日までの月額金三三、一六四円の割合による金員、同月二一日から昭和四三年三月二〇日まで月額金三七、三五九円の割合による金員、昭和四三年三月二一日から同年一二月二〇日まで、月額金四三、四四五円の割合による金員、同月二一日以降月額金四五、四四五円の割合による金員の各仮払いを求める限度では理由があるのでこれを認容し、弁済期については疎明がないので毎月末日限りとなし、その余は理由がないのでこれを却下することとする。よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条但書を適用して、主文のとおり判決する。(大野千里 横島典夫 木原幹雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例